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2011年12月 9日 (金)

銀閣寺さんへ

「なかひがし」さんに伺うまで

少し時間があったので、すぐ近くの

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銀閣寺へ。

 

実は京都には20年以上通ってますが

お寺なんか、殆んど行った記憶がありません。

いつも

講習→懇親会→次の日の講習みたい感じ。

(ホントは先斗町もあるくせに。)

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「無知」な私は

銀閣寺って屋根の裏に銀が貼ってあった

どこかに書いてあったような気がしたんですが

調べてみたら

銀閣寺に銀箔は

1度も貼られたことはない

そもそも銀閣寺は室町幕府8代将軍足利義政が1482年、建造に着手したのだが、応仁の乱(1467)などの直後ということもあって当時の幕府は極度の財政難に陥っていた。

つまり、銀箔を施したくても資金的に施せない状態にあったのだ。

(今のオレみたい?!)

銀閣寺には白川砂を盛り上げた銀沙灘があり、これにあたった月の光の反射が銀閣の銀箔天井にほの明るい光を感じさす

義政の苦心がそこにあった。 即ち銀砂灘の表面を銀閣に向けて煩ける事によって、この銀砂灘に落ちた月光は反射されて、銀閣そのものの楼上に達し、屋根裏を照らす、楼上の花頭窓を開けば、その中の天井まで達する。 天井には、その中央部僅かな部分であるが銀箔を置いて銀閣の名称に偽りがない事を示したものがある。 その銀箔に当った白砂から反射した光は、銀箔という反射鏡で再び曲折されて、閣内を広く照らす。 要するに東山から登った月光は、月−砂−銀箔と三回転して、閣上に光を取り入れる事に成功した。光線の反射の利用、一大変な発明ではないか。

{京の魅力、中村直勝著} 

金閣は足利3代将軍の義満によって建てられた。その孫の5代将軍義政によって銀閣は建てられた。覇権を競った先代にくらべて義政になると足利家も屋台がゆらいでいる。また義政の夫人は悪女の筆頭の日野富子で富子のへそくりで銀閣は建ったと言われるくらい義政には政治力も経済力もなく(お、オレか?)終止、造園や文化人との交流に明け暮れている

 

岡本太郎氏はこの銀沙灘の事を現代の美術の観点からベラボウなものと絶賛しています。白い砂を、例えば竜安寺の石庭の様に敷き詰める例が通常なんですがこの銀沙灘の曲線に盛り上げられた砂の立体は造形的に実に斬新なものと言うのです。 

以下、岡本太郎氏「日本の伝統」より。

「だいたい、日本のインテリや趣味人のくせで、あんまりバカみたいに、目の前にさらけ出されているものは、かえってまともに考えないという傾向があります。」

「凡人がただ見たのでは、とうていはかり知ることのできないというような、奥ぶかいもの。」

「何度もひねったもの。さんざんその道に苦労した、専門の眼光によってのみ見ぬけるようなものをこそ、大へんなものだと考えるようです。」

 

 

ちょっと理屈ぽかった

ゴメンネ

 

でも新店舗は

金閣寺みたいな「金ぴか」

「いかにも」の店で無く

銀閣寺みたいな

「判る人には解る」店を造りたいです。

 

「四畳半」の原型と言われる

東求堂の同仁斎は非公開で

(特別拝観時しか)見れなかったけど

Cimg1465

確かに「四畳半」の勉強に

Cimg1462_4 

「東求堂まで行った」という事実は残ります。

(新しい店でも「四畳半の和室」だけは

 是非造ってくれるよう拘りました。)

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